ラジカロックという日本が世界に誇る技術を持つ株式会社中野製作所。父が家族のために創業し、今は亡き弟が発展に向けて努力を惜しまなかった会社を15年間守り続けてきた橋本会長にお話を伺いました。父の代から活躍されている従業員もいる中で、M&Aで他の企業に譲渡するという決断には様々な葛藤があったと言います。”たった15年”と謙虚に語る会長ですが、そこには弟である勝巳氏の想いと共に、モノづくりへの拘りと、自社が誇る職人の技術力を誰よりも信じる素晴らしき経営者の姿がありました。ホッティーポリマー株式会社にご譲渡を決断された経緯を含め、その真相に迫ります。
[譲渡企業]
株式会社中野製作所
(本社:東京都葛飾区)
http://www.nakasei.co.jp/
1972年に現在の会長である橋本美幸氏の父が創業。2代目社長の勝巳氏(橋本会長の弟)がゴムとプラスチックの結合に向けた研究開発に注力し、自社技術のラジカロックを2008年に発表。ニューバランスのランニングシューズをはじめ、多くの製品に採用されている。
[譲受企業]
ホッティーポリマー株式会社
(本社:東京都墨田区)
https://www.hotty.co.jp/
1951年に創業。ゴム及び樹脂の高分子素材押出成形技術を中心に事業を展開し、2019年からは3Dプリンターサービスを本格的にスタート。国内だけでなく、タイにもプラスチック工場を所有している。2024年に株式会社中野製作所と資本業務提携を結ぶ。
弟の想いと共に歩んだ15年、誰よりも技術力を信じたからこそ選択したM&A
株式会社中野製作所の事業内容について教えてください。
橋本 様:中野製作所は1972年に私の父が創業した会社です。配合ゴム、ゴム複合材、そして、ゴム表面処理技術の研究開発から製造までゴム製品に関しての取り扱いは多岐に渡ります。当社の製品は公共施設から生産機器まで様々なものに利用されていますが、中野製作所の代名詞とも言える「ラジカロック」は世界的スポーツシューズメーカー、ニューバランスのランニングシューズに採用されており、大きな注目を集めました。
お父様が中野製作所を立ち上げた創業経緯をお聞かせください。
橋本 様:創業者である父は元々、化粧品メーカーに勤めていたのですが、経営が傾き退職を迫られていました。再就職先を探しているなかで、親戚の方から「知り合いがゴム加工の下請けをやってくれる人を探しているから、やってみないか。」という誘いがあり、それを受けたのが中野製作所の始まりです。
私がまだ12歳の頃ですが、狭い平屋の玄関にゴムのカット機が入れられ、朝早くから夜遅くまで両親が働いていたのを覚えています。主に腕時計用のパッキンを量産していたのですが、精密加工で徐々に顧客からの信頼を得ることができました。
その後、中野製作所はどのように事業を拡大していくのですか。
橋本 様:顧客からの信頼を得て事業も安定していたのですが、その時代も長くは続きませんでした。ゴム加工の量産は海外へと需要が移り、中野製作所も売上が大きく落ちていきました。そんな状況で、立ち上がったのが弟の勝巳です。このままだと会社が倒産してしまうと危機感を抱いた弟は独学でゴムの勉強をし、信頼していた取引先の方々に相談をしながら、路線変更を画策していました。
それまではお客様の要望通りに作るだけが仕事だったのですが、弟が目指したレベルは全く異なり、クリアにしなければならない課題はたくさんありました。お客様が求める製品を作るために、これまで全く作ったことのない領域にまで挑戦し、お客様にフィードバックをいただいて、また改善していく。その繰り返しの日々でしたが、創業からゴムパッキンを主としてきた当社も、弟の路線変更によりゴムローラーの試作依頼も頂くようになりました。その頃、銀行合併により新しい銀行ATMの導入が全国で行われたのですが、そのATMに当社の製品が採用され、中野製作所の歴史でも、圧倒的な売り上げを記録することができました。「中野製作所のバブル」です。
それを受けても満足せず、この時代も長くは続かないと感じていた弟は、常に新たな商材を探していました。そのなかで、1999年に開催された国際プラスチックフェアで株式会社ダイセル・ヒュルス(現・ポリプラ・エボニック株式会社)が特許を取得していたK&Kの技術(ゴムと樹脂を架橋反応によって結合させる技術)との出会いが転機となります。ゴム側の製造方法が確立されていないことに興味を持った弟は、業務の合間に展示会から持ち帰ったサンプルの樹脂にゴムを結合するテストを繰り返し、数年かかってようやく結合に成功しました。当時、弟が「何度も失敗して繰り返すことで学ぶものがたくさんある。その全てがノウハウになっている。」と話していたのを覚えています。
そして、2008年に開催された国際プラスチックフェアで、ゴム×樹脂架橋結合複合材、当社の看板技術となる「ラジカロック」を発表しました。当時はリーマンショックの最中でしたので、厳しい状況ではありましたが、一丸となって頑張ってきたことが報われ、ニューバランスのランニングシューズにもラジカロックが採用されました。年数はかかりましたが、中野製作所の技術が世界に通用すると証明された瞬間です。
橋本会長が3代目社長に就任する経緯を教えてください。
橋本 様:新卒で入社した証券会社を結婚を機に退職し、子育てを経て、また仕事に復帰しようとしたタイミングで私も中野製作所で働かせてもらおうと考えていました。しかし、当時は大きく売り上げが落ちていたのと、弟と妹夫婦も当社で働いていましたので、母から「あなたまでここで働いてしまうと、何かあったときに家族総崩れになってしまう。別の場所で働いた方がいい。」と止められました。
その後は携帯電話会社で働いていたのですが、ある日、弟から連絡があり「今後は父に代わって自分が社長となって引っ張っていきたいと思う。だから、会社に入って手伝ってほしい。」と連絡がありました。正直なところ、中野製作所は厳しい状態で、給料もそれまでの1/4程度でしたが、覚悟を決めた弟を少しでも応援したいとの気持ちから、私もこの会社に入りました。
しかし、2008年の国際プラスチックフェアでラジカロックが発表されて、当社としてもこれから実用化に向けて頑張っていこうとした2009年1月です。ラジカロックへの想いが人一倍強く、最大の功労者でもある弟の勝巳が他界しました。
私としては後を継ぐイメージも持っていませんでしたが、家族の後押しもあり社長に就任することに決めました。当時は弟のお付き合いすらも把握しておりませんでしたが、ポリプラ・エボニック株式会社の方から連絡があり、「せっかく完成した技術ですが、まだ続ける意思はありますか。」と言っていただいたので、「勿論です。」とお返事させていただきました。その後、ニューバランスさんで採用されることが決まるわけですが、そういったお声をかけていただかなければ、私も続けることはなかったかもしれません。そして、そのお声がけも弟の人望あってこそのものだと感じています。
中野製作所の技術力を信じるからこそ、最大限活かせる会社に託したかった
後継者や事業承継を考えるうえで、M&Aは選択肢に元々ありましたか。
橋本 様:いいえ、特に考えてはいませんでした。ただ、父親と弟が守ってきたこの会社を守りたいという一心で必死に続けてきましたので、社長に就任して10年が経過したタイミングで、「私はいつまで社長を続けるのか。」と自問しました。恥ずかしながら、何もしなくても、この会社を託せる人材がでてくると考えていたのです。
その頃、銀行から「事業承継は時間がかかるので、息子さんへの承継を最優先として検討してください。」というアドバイスを頂いたのですが、私も息子たちには後継者になることを強要したくなかったですし、息子たちも自立していたので継ぐつもりはないとのことでした。銀行からも、M&Aという選択肢もあることは聞いていましたが、クリアにしなければいけない課題は山ほどあるので、銀行も私も当社には難しいと感じていました。
ここ数年は、従業員で誰か社長に適した人材が出てくればという選択肢を考えつつ、M&Aに向けてクリアにすべき課題を解決していこうという考えで進めてきました。
ホッティーポリマー様を選ばれた決め手はどこにありましたか。
橋本 様:ホッティーポリマーさんは同業の会社で、お取引もあるので、最初に聞いたときには驚きました。M&Aに対して不安しかありませんでしたが、どんな会社さんか、なんとなく知っている会社さんの名前が出てきたので少し安心したのを覚えています。
また、一部の従業員は知っていたのですが、ホッティーポリマーの堀田社長は他界した弟の親しい友人の同級生だそうです。私はそれを全く知らなくて、その話を聞いた時にも巡り合わせを感じました。その後、面談後の立ち話で、堀田社長が私に「弟さんが生きていたら、どんな会社になっていたでしょうね。」と言ってくださったのが印象的です。その時、勝手ながら堀田社長は既に中野製作所をどう発展させるかというイメージを持たれているのではと感じ、この方に託したいという気持ちが芽生えました。ただ、後で確認したところ、堀田社長はその発言を全く覚えていないそうです(笑)
また、同業ということもあり、ホッティーポリマーさんのことはよく耳にしていました。タイに工場を建設されたのですが、洪水で大きな被害を受けたにも関わらず立て直したという話から力強さを感じていました。また、3Dプリンター含め新しい技術にも積極的に投資しているイメージもありましたので、堀田社長が当社の技術力を評価していただけているというのも素直に嬉しかったです。
自然災害や新型コロナウイルスなど様々な出来事があるなかで、何度も諦めそうになりながらも、私はなんとかこの会社を維持してきました。しかし、当社が誇るこの技術を何も発展させることはできませんでした。また、時代の移り変わりも激しいなかで、弟のように新たな商材を発見しにいくということも私にはできなかったのです。このままだと中野製作所が衰退していくという危機感は常にありましたので、ホッティーポリマーさんであれば、当社の技術力を最大限活かしてくれると思いました。
M&Aを社員の皆様に報告した際、反応はいかがでしたか。
橋本 様:とても緊張したのを覚えています。当社の従業員は中野製作所に強い想いを持っている人が多いです。父の代から働いてくださっている人もいれば、弟の頑張りを間近で見てきた人もいます。そんななかで、15年間だけ社長をやって他の会社に託してしまうという決断を、従業員がどう受け止めるのかという不安がありました。怒られてしまうのではと考えたこともあります。
しかし、私が話した後にもホッティーポリマーの堀田社長が来てくださり、従業員に「中野製作所は名前も変わりません。社長が交代するだけで、このまま続けていきます。両社が発展できるように頑張りますので、このまま続けていただければ。」と話してくださり、従業員も安心できたようです。
もちろん、心配なことは多々あると思いますが、今のところ何も不安の声は私に届いていません。社内で「社長!…じゃなくて、会長!」と笑いながら声をかけてくれたりしているので、とりあえずはホッとしています。
塩田さんが最後まで寄り添ってくれたからこそ、安心して進められた
M&Aロイヤルアドバイザリーのコンサルタントはいかがでしたか?
橋本 様:M&A仲介会社からはたくさんのお手紙が届きますし、お電話も頂くので、基本的に私は電話にでないようにしていました。そんな中で以前、一度だけ他社の大手M&A仲介さんの電話を取り、お話を伺ったことがあるのです。正直なところ、手数料に関する話題しか頭に残らず、ただひたすらに疲れた印象しかなかったので、M&A仲介会社にはネガティブな印象を持っていました。
それからまた暫く電話を私が取ることはなかったのですが、久々にとった電話がM&Aロイヤルアドバイザリーの塩田さんで、すごく柔らかい方だという印象を持ったのを覚えています。振り返ってみれば、最初から最後まで塩田さんが私に寄り添ってくれたからこそ、安心して進めることができたと感じています。
M&Aは用語など含めて難しいものが多いなかで、塩田さんは常に私にも分かりやすく噛み砕いて説明してくださいました。何か分からないまま進むということはなく、ひとつずつ丁寧に疑問を解消しながら進んでいくので、本当に助かりました。
塩田(担当コンサルタント):初めて実際にお会いしたタイミングで、後継者にお困りだという印象がありました。比較検討に向けては実際に譲受企業様とお会いしてみないと見えないものがあると思いますので、私としても出来る限りのお手伝いをさせていただければと考えていました。
会長はM&Aの可能性をおひとりで探られ、誰にも相談していませんでしたので、当然のことながら、とても不安な日々を過ごされていたと思います。ですので、私としても密にコンタクトを取らせていただきました。その結果として会長のご不安を軽減できたのであれば、私としてもお役に立てて大変嬉しく思います。
弟の大切にしてきた想いを残せば、中野製作所のモノづくりは途絶えない
将来、会社も変化していくなかで残したいものはありますか。
橋本 様:弟が健在の時に大切にしていたものが3つあって、私は今でもそれを従業員に伝えています。「①思いやりの心を意識して大切にすること」、「②感謝の心を忘れない」、「③どんな困難に直面しても決して途中で放棄せず、最後までやり遂げる」この3つです。まだ挑戦したことのない領域だと、自分たちには無理だろうという声も必ず出るんですよね。でも、弟はそんな意見があるなかでも、最後まで諦めずに挑戦して、中野製作所を立て直しました。
弟が大切にしてきたこの3つの教訓は、今後も会社として守り続けてもらいたいと思います。それが出来なくなってしまったら、どこかモノづくりが出来なくなってしまうような気がするんですよね。ちなみに、ホッティーポリマーさんの基本理念にも共通している部分があったので、その点でも安心しています。
最後に、これからM&Aをご検討されるオーナー様に伝えたいことなどありますか。
橋本 様:会社を継続していくという点で、私はM&Aという選択が正解だったと感じています。会社を守り、従業員が安心して働き続けられるということが私の最大の目的でしたので、こうやってホッティーポリマーさんという信頼できる会社さんとご縁をいただけて、本当に良かったと感じています。ありがとうございました。